<佳境の日の講演会・序曲>
 2003年3月22日正午前、深山幽谷・西金砂の峰を出発した神々は琵琶湖畔から鮑の舟で漂着したという伝説の浜、日立の水木磯まで磯出・浜降りの旅に出た。25日未明にはこの磯で秘密の内に神々の威光を取り戻す神事が行われ、再び峰を目指して帰路に就き、長い行列が上河合の祭場から藤田に向かい、一方、25日午後出社した東金砂の行列が水府村を常陸太田に向かっていた頃、つまり、東西の神々が茨城県北ののどかな田園を1200年の平安絵巻に染めていた3月26日正午前、古川先生ご夫妻がJR常陸太田駅に到着した。
数え切れないほどメールのやり取りこそすれお逢いするのは初めて。木下会長、木村さん、小寺君らOB会役員と共にお出迎え、文春新書「原発革命」に載っていたお写真の通り、朝廷の命令で東国の平安と隆盛を目的に田楽舞を携えて派遣された古川家の末裔に相応しく白髪の科学者のお顔だった。
早速、宿舎兼会場のときわ路へ。この日午後2時からは水府村和田の会場で祭典と田楽舞いが行われる。我々は先生にご覧いただきその感動をもとに講演に臨んでもらいたいと考えていた。壁があった。交通規制である。70歳を超えておられるご夫妻に徒歩や自転車で、という訳にもいかない。先生の案内役の木村仁久さんの機転は凄かった。ときわ路から誰も知らない山道を抜けて和田会場のすぐ側まで車で乗り付けた。和田にはライオンズクラブが秋田からのお客様のために設置していた桟敷があった。先生ご夫妻をご案内、石川一博さんが桟敷に詰めかけた見学者たちに先生をご紹介した。大きな拍手が沸いたという。



 私は講演会に参加してくれる大好き茨城県民会議の女性群と共にときわ路から自転車で和田に向かった。菜の花が咲く源氏川の水も温んできた。路傍の梅の花がそよ風に乗って香しかった。国見山と阿武隈の峰、素朴な野山の風景に自転車を漕ぐ女性たちから「キモチイイ…!」「これだけでも来た甲斐があった!」とはしゃぐ声が聞こえてきた。私の心には、祭り佳境のこの日にこの企画をして良かったな、という満足感が湧きあがってきた。

<佳境の日の講演会・本論>
 講演会はときわ路の大ホールでPM5時半から開始だった。開始30分前から続々参加者が集まりだしました。茨城新聞社の市村眞一君も到着。彼は今から20余年前、連載執筆中の「茨城人のルーツ」で県民に初めて古川家を知らせた有能記者。当時、東海村の日本原子力研究所に研究者としていらした古川和男氏を72年毎の大祭礼祭主の子孫として取材・執筆した。彼をソファーに案内、先生に引き合わせた。時の流れは一瞬、二人を戸惑わせるほど長いものがあった。先生は白髪になり、市村君は髪が薄くなった。しかし、すぐに昔の記憶を懐かしむひとときがあった。

講演前に記念撮影。右から二人目が古川先生。その左が私(髪ボサボサ)その左が木下会長。その左が市村君。

 PM5時30分ジャスト、会場の電気が消され満員100人の参加者が首をかしげた瞬間、悠久なるメロディーが奏でられ、過去の大祭礼の一こまや県北の素朴な自然が映し出された。眼科医根本龍司氏が丹精を込めて作成したCD。流れるのはNHK新日本紀行のテーマ曲だった冨田勲さんの名曲。作曲家冨田さんは子供の頃、しばしば、常陸太田を訪れていた。聞くところによれば、磯部田圃の奥に親しい親類があり、久慈川の橋を渡ると関東平野の風景が一変し、のどかな田園の向こうに連なる阿武隈の山並み、この牧歌的な風景が原風景となって生まれたのがこの曲という。私はNHKの了解を受けて講演会最初の演出にこの曲で始まりたい、と思っていた。根本氏はこのアイデアを活かし川上千尋先生や私が撮影した古里の風景写真を散りばめて素晴らしい演出CDを作ってくれた。7分間の画期的な演出にうっとりした参加者。成功だった。
 菊池保裕さんのスムーズな司会進行で開幕。
まず木下会長が「スローフードと癒しが最も望まれる時代の到来の中で、私たちが暮らし住むこの古里の自然や歴史を今一度、大祭礼にちなんで見詰め直すことの意味は大きいと思います」と挨拶、古川先生の講演が始まった。

講演要旨は次の通り。
金砂磯出大祭礼記念講演会:常陸太田市        2003.3.26.
「祭主子孫として17回大祭礼に思う」       
                             古川 和男 

昔、科学者なのに歴史に関心があるのは驚きだ、と新聞記者にいわれ唖然とした事がありますが、この地方の皆様とかなり強い血の繋がりをもっているのに深い感銘を覚えます。
先祖が1200年前にここへやって来たからですが、その祖先は恐らく韓国から来たと思います。根拠の一つは、芸能に優れていたのは渡来人であったのと、この主祭神の「笑い面」とこの現代の韓国河回村の「笑い面」との起源は、同じ1300年以上前の韓国にあるのではないかと思うからです。韓国は日本よりも騒乱が激しく古代の歴史はあまり明らかでないようですが、この河回村は今も生きている歴史村です。
恐らく敦賀経由で日本に渡来し、琵琶湖東岸中央の豊な農村の一角の古川邑に住み着き、繁栄していた藤原家と縁を結びつつ、田の祭を主宰したようです。その祭の踊り振り付けが優れ、時の朝廷より天下一家の称号をもらい、国家鎮護の重要拠点の日吉大社に奉仕しました。さらに当時の重要政治課題である東北蝦夷征討に対する基地常陸国の支え強化のため、産土神の一つ西金砂山に派遣されて来たのです。
そこで生れた父と共に、私は昭和37年に始めて西金砂や生家を訪ねました。私が日本原子力研究所にやって来たからです。父は日立鉱山に入り、大正からは最新鋭の大分佐賀関製練所で敗戦まで働き、そこで我々は生れました。その頃は、この地方はまだ大変に辺鄙な所で、父も散々道に迷ったものでした。
しかし1200年前は相当に栄えた地帯ではないでしょうか。それ以前から関東は住みよい処で、渡来人の居住遺跡も多いのです。だが現代よりも、飢饉や天変地異に耐えつつ生きるのは大変な仕事であったに違いありません。神の祭を中心として部落の共同団結を育て励ますのが全てであったと思います。奈良の朝廷守護神三輪山で整えた春日作の三祭面を携えて朝命で遣って来た古川盛有は、九年後の未(ひつじ)の815年に、朝命で七年回小祭礼を創めました。
七年目毎の未丑(うし)と回を重ねてそれが第七回となった未の851年に、2代目盛綱が勇猛心でもって一回りも二回りも大きい73年目毎の大祭礼を創めました。ここでも「七」を尊重した「七回目の羊の年」(12年×[7−1]=72年)毎の開催としたわけです。この祭は、七つの大字部落で構成され、七人の世話人、七人の神輿奉仕者、七人の神職者、七つの屋台などと、全てが七でまとめてありました。未を重視するのは、元気のない歳との言われを振り払い元気付けるためです。
小祭礼で繋ぐにしても72年は長い。その心は何だったのでしょう。私は父や郷里の古老方と語り合う中で、世界に例のないこの壮大な祭を創めた想いの根源は、人々の長生きの願いを励ますことにより、人々の助け合いを呼び起こし部落の繁栄を齎す、正に「祭」の使命目的そのものに役立つと直感したからだと思います。
人々はこの世に稀な祭りにあやかりたいと強烈な長生き願望を持つが、厳しい現実の中では「尊敬すべき老人」と大事にして貰わねば果されません。それは若い時の部落への奉仕献身によってのみ得られるでしょう。このように大祭礼の思想は世界に冠たる優れた発明であったから、1200年続いたと思います。人間は助け合はねば生きられません。さらに今は社会発展と共にもっと複雑になった地球環境の中に生きていますから、気象・天候・天災そして植物・動物との共存共栄をもっと真面目に、10年などでなく少なくもこの72年といった長期で考えるべきです。
より詳細な歴史経過は、昨年11月の茨城新聞に十回連載紹介しました。


熱心に聴く参加者
祖父は本家の末子で、明治初年に佐竹家ゆかりの大野部落六柱神社の神官になり、その末子が父武雄です。共に年老いた両親と接して、祖先の思いを最も良く伝えたようです。私も少し似ています。神官の子の父が、特に有能な金属精錬技師になり多数の優れた発明に成功していますが、その謎を解く鍵は「良いことを思い付いたら実行せよ!」と云う祖先の教えを潜在意識的に悟ったからと思います。それに気付いたのは父の没後で、直接語り合えなかったのは残念です。
口幅ったいですが、私もそうです。父に、そして幕末の志士だった祖父の兄たちに励まされ、また敗戦時に死線をさまよったのが財産のようです。政官業学情が癒着した日本で「死んだと思えば怖くない」と、いささか科学研究者としての筋を通す事が出来ました。始めは父の道を発展させようかと思いましたが、その基礎を活かして今世紀の地球救済に役立つ「トリウム熔融塩炉」を提案しています。概要*は別紙解説および文春新書「原発革命」で知って頂き、ご支援をお願いいたします。
私事に偏り失礼致しましたが、これからは国家の時代ではありません。大衆、そして「地域の時代」です。各地域が各個人が、思うところに従って堂々と個性を発揮・尊重し合いつつ、真の協調・共存共栄を計るべきです。1200年の歴史に耐えた大祭礼は、その先駆けではないでしょうか?
                  元日本原子力研主任研究員・元東海大教授
                            トリウム熔融塩国際研究所所長
Tel/Fax:0463−61−3088
(*)"地球救済エネルギー戦略"のための新しい原発として、トリウム熔融塩炉を推奨しています。今世紀の基幹エネルギーとしては、天然ガスの次に「核分裂」に頼る他無いからです。しかし今の原発は古すぎます。もう核分裂は六十年の歴史を持つのです。真の企業家が取上げられる新技術が無い筈がない。我々の提案はすでに、その基本l技術は準備されており、資源、安全性(苛酷事故なし)、核拡散・核テロ(プルトニウム生れず、消せる。非軍事的)、核廃棄物(激減、消滅)、世界への適合性(小型可能、構造・運転・保守が単純、核燃料自給自足型、研究開発費と開発期間は僅か----)と全てで開発戦略が立っています。昨秋にはOECDとIAEAが共同で開発を推薦。具体的内容に関しては、是非 拙著:文春新書「原発革命」を。


ここからは今度の講演会を通して私自身が感じたことを含めてエピソード風に綴ってみたい。
<川上先生の反省>
 「磯出の背景・常陸5山」と題して話された川上千尋先生はこのような方です…。
1934年、常陸太田市生まれ。東北大理学部卒。勝田工業高校校長を退職後は、茨城県北の自然と歴史の研究と街づくり運動の理論的指導者として活躍中。近年は常陸太田と近郊の町村の大自然をキャンバスにして、地域そのものが博物館、いわゆるエコミュージアム構想の推進に尽力中。21世紀を切り開くキーワードはいわゆる奇人変人、個性が豊かな人の連合による地域活性化、ではないか?という発想の持ち主。常陸太田文化財保護審議会会長。ひたち巨樹の会代表。
 この先生と私は近年のお付き合いです。先生が進められていますエコミュージアム構想を通しての接点。このプランは地域の個人が所有されています歴史的文献・骨董などを公開を前提に点と線で繋ぎ、のどかな広域常陸太田地方の大自然と合わせて地域全体を博物館的キャンバスにしてしまおうという壮大なロマン。実は私どもにも老舗ゆえにいくつかの史料が残っていまして、数年前には水戸黄門ゆかりの救民妙薬公開展をこの事業の中で実施していただいた経緯もあります。
 さて常陸5山とは北茨城の花園山、十王町の竪破山、東西の金砂山、そして常陸太田の真弓山。常陸風土記に載っています由緒ある県北の峰。先生は講演や随想の中で「いずこの山にも祭神があり、それは創建時期(800年頃)や五穀豊穣・海幸山幸感謝祈願の磯出浜降り行事など共通項がある。天然記念物の樹木が生い茂り、深山幽谷の常陸5山は正に県北の宝です」と言っています。


 新緑や紅葉の季節には首都圏の手軽なハイキングコースとしてのどかな憩いの山野ともなっていますこの山々も、しかし、ジワジワと荒廃が進んでいまして、山の持つ保水力や森林機能に翳りが見えています。
 大祭礼がまもなく開始、という時期、先生が我が店に見えましてしみじみとこんな話をされていました。「川又さんねえ、過去の先人たちは大祭礼を行う時、その時代時代の状況に合わせて、臨機応変な祭りを創りあげてきたと思うのですよ。今、このように地球温暖化、森林の荒廃が最大の課題になっている時、平成の大祭礼では、こうしたところにも視点を置いた祭りに創りあげる議論や合意が欠けていた、私もその点、この地の自然を見詰める者として大いに反省してるんだがね」。
 全く同感です。私も申し上げました。「山は今、安い外材の輸入で国産材が見向きもされなくなって久しい。切り出しても手間賃も出ない。一方、戦後植林で放置された老スギからの花粉は一大国民病にもなっている。もはや民間の力で山は整備されない。ここはひとつ、道路建設から公共事業の中身を変えて、森林・緑の再生事業を国家プロジェクトにしていかなければならない。とりあえず、県北の山野の再生という視点で行動を起こしていく大きなチャンスにしたいものですね」。
 大祭礼は終わった。しかし、この祭りで私たちは古里に残る大いなる財産の一つとして、まだまだ豊かな自然の恩恵と歴史の重みを再認識した。ポスト大祭礼の活動の一つに、常陸5山、そしてそれを取り巻くのどかで身近な野山を見詰め、更に一層、豊かな森にしていく努力と行動が大切なのではなかろうか。
 川上先生らと共に新たな行動の第一歩を痛感します。


つづく
前のページへ 次のページへ