黄門様の桃源郷づくりに関する講話・要旨
2009:1:22 常陸太田LCで
こんばんは、地区ガバナーや地区委員の皆様方をお迎えした中で、私たち郷土が誇る大きな宝ものの一つでございます、水戸黄門さまにつきまして、お話をさせていただけますこと、大変嬉しく思っています。家康公の孫、水戸徳川家2代藩主・水戸黄門様はあまりに偉大で、マルチな宇宙をもっている方でございますから、私みたいなものが語れることはホンの一部のことです、ただし、これからもライフワークの一つとして、水戸黄門研究はしていきたくおもっていますので、どうかご容赦をお願いします。
メンバー各位におかれましては、もうすでにとくと、御承知のことばかりかとは思いますが、黄門様再確認・再認識ということで、なお一層のご理解をよろしくお願いを申しあげます。
今日は私の太田一高41会、昭和41年卒の仲間数人も、応援に来てくれました。ありがとうございます。
<序>
私にとりまして一日で一番充実した時間、それは朝です。
愛犬クマコと共に、雨の日以外は、7時前後に出かけます。
散歩コースにはお墓を必ず入れます。両親・先祖が眠っています東三町・浄土宗・法然寺、日蓮宗・久昌寺、ほぼ毎朝、どちらかには行っています。久昌寺は、水戸光圀公がそのお母さま;お久の方を弔うために建てたお寺です。朝の散歩の様子をCDにしました。
(ここでCD1散歩スタート・こんな感じで流しました)
ここをクリック!
水をあげ、線香をあげてお参りした後は、上に登って、義公廟を通って、西山公園に行き、展望台から阿武隈・国見の稜線、山並みに心洗われて一日をスタートさせる、このひとときが最高に楽しく心が洗われる至福の時間なのです。
今夜は、わたしたち常陸太田ライオンズクラブが15年前からやっています平成の桃植え活動、黄門さまの桃源郷づくり運動について、そのねらい、意味意義を再確認するために、
「黄門様はなぜ太田の地・西山に隠居、桃源郷をつくろうとしたか?」
「偉大なるマルチ人間といわれる黄門様の業績について、そのいくつかを紹介・・・」
「我々常陸太田クラブが桃源郷づくりを進める意味」
そして、時間があれば水戸徳川家と常陸太田市との未確認最新情報と街づくりの夢・・・
そんな話ができたら・・・と思います。
まず全体の雰囲気をつかんでいただくために5年前の桃植え作業の様子を中心にしたCDを作成したのでどうぞ。
(CD2花桃・ああ人生に涙ありの唄にのせて)
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<黄門様はなぜ西山に隠居し、桃源郷づくりをしたか?>
水戸藩第二代藩主の黄門様は、寛文元年(1661年)夏、
34歳の時に藩主の座に就き、元禄3年(1690年)まで30年間、藩主でしたが、この年、元禄3年の暮れ、63歳の時に、藩主の座を退き、水戸に帰りました。
この様子を克明に書かれた文があります。読んでみます。(配布)
(田中内での年の瀬と正月・コピー・HPでは省略)
<なぜこの西山だったのか?>
A:よく言われている推測 佐竹の本拠地・太田にはまだ反徳川感情あり、徳川の安泰のためには重要な拠点・太田にいて庶民と交流、徳川への協力体制醸成
B:北の瑞竜には父・初代藩主頼房が眠り、亡き母の眠る久昌寺(当時の寺は今の場所よりずっと南西で、西山荘からは南になる)がそばにあり、その寺の実質的住職は自分が京都からお呼びした日乗上人、書の先生であり、毎日のように行ったり来たりできる立地。こんな最高の場所はないわけです。
隠居する前の年・元禄3年の巡廻時に、村々を回っていた光圀は新宿の白坂(今の西山入り口あたり)を通ると、・すけさん・佐々介三郎にこう言います。
「このあたりに宜しき場所これあるはずだ、見てこい」。すると、すけさんや家来の杉浦孫衛門は、坂ノ下の細い道から奥へ見に行って、戻ってきた「奥のほうはことのほか狭いけれども、良き場所です」。そういう事情で白坂の谷の奥を隠居屋敷の場所と決めてやがて質素な西山荘の建設が始まるわけです。
翌・元禄4年から10年間、新宿村西山の住民となった光圀は、以来ずっと、西山、西山隠士、西山前中納言、などと自称して、諡号(おくりな)の義公とは別に、西山公と呼ばれるようになったわけです。
<黄門様は西山にて何をしたか?業績の再認識>
元禄3年から元禄13年(1700年)12月、73歳で没すまで
「大日本史編纂」
徳川光圀によって開始され、光圀死後にも水戸藩の事業として継続、明治時代に完成した日本の歴史書。神武天皇から後小松天皇まで(厳密には南北朝が統一された1392年(元中9年/明徳3年)までを区切りとする)の百代の帝王の治世を扱う全397巻226冊。
水戸徳川家世子として教育を受けていた青年時代の光圀は非行も多かったが、18歳の年、正保2年(1645年)に『史記』「伯夷伝」を読んで伯夷・叔斉(はくい・しゅくせい)に感銘を受け、以来は反省して学問に精励し、史書編纂を志したという。
大日本史は大変長期にわたり編纂事業が続き、完成したのは明治39年、この話だけで相当なテーマなので今日は省きますが、一つだけ、
大日本史の編集方法は、全国に史館員、つまり研究者を置いて、できる限り根本史料に基づいて実証しようとしました、(幕府が林家りんけに命じてつくった本朝通鑑(ほんちょうつがん)は、従来の手馴れた方法の編集、ちょっと作り方、検証方法に違いある)
大日本史編纂はそういうわけで、大いに議論風発がなされるわけ、そうした議論の中から、水戸学が生まれ、尊王思想がやがて、幕末の尊皇攘夷・倒幕運動へつながった、という見方をする研究者も多いです。
「黄門様は健康づくり運動のパイオニア」
「山野の貧しい土地には、医者も薬もないから、農民が病にかかると、自然に治るのを待つか、治らぬものは死すか、あるいは廃人になるかの、どちらかである。これはみな、天命を全うしたとはいえない、だから、誰でも求めやすい薬草その他の処方を集めて、田舎の恵まれぬ人々に与えて、これを救うようにせよ!」
元禄6年、1693年、黄門様は、お抱えの漢方医・鈴木宗与(姓は穂積)に、このように命じました。
身の回りに自生する、ドクダミやゲンノショウコ、桑の葉、南天、もちぐさ・よもぎ、などなど約400種類の民間薬・漢方生薬の採取法、薬効、使い方の本、救民妙薬を出版しました。当時、薬用人参などは極めて高くて、殿様や高給取りの武士でしか、飲めない、一般庶民は病気になったら娘を身売りしてこうした高額な薬を手に入れるか、ただ死んでいくのを待つしかない時代です、こうした世の中で黄門様は、身の回りの役立つ薬草を薬として使う、その方法を民衆に教えようとしたわけです、極めて画期的なことで、黄門様の民衆への優しさ、の表れの一端でしょう。
これは私の仮説ですが、救民妙薬を黄門様が創った背景に、黄門様が中国・明の儒学者・朱瞬水がある、と推測します。
黄門様が隠居される100年前に中国:明で生まれた薬物・薬草・生薬などの権威ある李時珍の書物「本草綱目」を読むことができた、それは朱瞬水さんが持っていたのではないか、と思います。日本版の本草綱目、それも一般向けの、それが救民妙薬です。
余談になりますが、私どもの家伝薬・女性血の道改善の赤茂伝も、そして最近誕生した黄門様の健康茶・双和元気湯も原典は実はこの救民妙薬にあるわけです。
西山荘周辺に薬草園が数箇所あったようです、黄門様はまた潮来に紀州産の蜜柑園を持っていたそうです。
「西山荘での暮らし」
1:衣食住など日々の暮らしは質素倹約
2:書斎にあっては大日本史の筆をとって、尊王の大義をあきらかにする学問研究生活
3:晴れれば田畑に出て自ら耕作する。薬草園の手入れもモチロンしたでしょう。
4:村々を歩いて民に話しかけ、慈愛・いつくしみのまなざしを向ける
簡単にいえばそういう暮らしを西山荘で10年続けた。
牛乳を初めて飲んだ、チーズを食べた、ラーメンをはじめて食べたのは光圀とか、いわれるほど、どんなものでも食べ、どんなところでも安眠できて、自ら体を動かす生き方が苦にならなかった光圀公、西山荘には近隣の庶民が野菜などを持って遊びに来て、気軽に黄門様も話す、額田や久慈浜や河合など周辺の散策と人々との交流を欠かさなかった黄門様、それがやがて漫遊記のモデルとなったのでしょう。
旬のものを食べるのが好きだったようで、瑞龍の耕山寺に三月、ふきのとうを食べにいったことなど毎年のようだった。
黄門様のお酒好きは有名、しかし、けして酒に飲まれることはなかった。黄門様の酒は、ひとりチビチビ静かに杯を傾ける、といったものではなく、家来や来客、そして日乗上人らを相手に、のびのびと談論風発しながら豪快に楽しく飲む、そして詩歌を詠む、そういう明るい酒宴の雰囲気が多かった。特に冬の酒飲み会を「別春会」と呼んでいた。
ある寒い夜の酒席、黄門様がこういった、「酒を飲めばまことに暖なること春色の如し、この寒気をも消却するぞ。げに杯の中に別の春があるが如し。」
いくら大酒をのんでも、黄門様は、前夜の出来事一部始終を克明に覚えているから、酒が強いというのか、天性の利発な殿様というのか、家来たちにとっては、酒席といえどもしかし、けして油断はできなかった。酔った勢いの無礼講や、身分を越えたなれなれしさを許すことはない、ある種の厳しい酒席の面もあったようです。
酔いしれるということはない、こころの奥底でどこか醒めていて、酒の美味しさ楽しさと、知識・情報・詩歌づくりなど知の世界を楽しむ、高尚な酒飲みだったということがいえるでしょう。
「日乗上人日記」
日乗上人は黄門様が京都から来てもらった名僧で、元禄4年から16年まで13年間の日記で、黄門様の日常の西山荘での暮らしも克明に記されています。
美濃の半紙1041枚、字数は120万字。これはずっと久昌寺に大事に保管されていましたが、昭和12年に西山修養道場のトップになった稲垣国三郎という方(愛知県出身の教育者)が10年以上かかって解読、昭和29年に刊行された。(当時のお金で1500円。今は古本であれば数万円)。貴重な本です。
<桃の木の記述>
黄門様は西山荘を、中国の詩人・陶淵明「桃花源記」に感銘、桃源郷にしようとされました。
桃源郷(とうげんきょう)とは、中国における理想郷。俗世間から離れ、山水の中で仙人の境地で遊んだり、素朴な農耕をしたりできる世界である。また転じて、仙人がいる・あるいはそこにいけば仙人同様になれる聖地ともされる。武陵桃源(ぶりょうとうげん)ともいいます。
『桃花源記』の全文はわずか数百字のフィクションですが、美しく、俗世間から離れた桃源を通して、あらゆる人が安穏に暮らすことができるユートピアを描いている。
ある漁師が、渓流に沿って漁をしているうちに、偶然、流れの水源にたどり着いた。一面の桃の林を通り抜けると、そこには肥沃な土地が目の前に広がり、竹や桑が茂り、男女が田を耕し、鶏や犬の声が間近に聞こえる明るい日差しの、穏やかな光景があった。
村人は漁師を見てとても驚いた。村人の祖先は、秦の時代の戦乱の世を避け、この地にたどり着いて、それ以来、世の中から隔絶してしまい、すでに王朝が何度変わったのかも知らないという。
漁師は数日間、親切にもてなされたあと家に戻り、周りの人々に見聞きしたことを話し、みんなは漁師に導かれてその村を探しに行ったが、どんなに探しても、極楽浄土のような「桃源郷」は見つからなかったという。そういうお話です。
「桃源遺事」、これは、徳川光圀に関する逸話などを集大成したもので,光圀の誕生に力を尽くした三木氏らによって元禄14年(1701)に編さんされた本にも「西山には小径を挟みて桃数百株を植えさせ、増井川の流れに柴橋を掛けさせ、桃源橋と号したまう」と書かれています。
<クラブ桃源郷づくりの意味意義と経過>
私たちの常陸太田は佐竹470年の素晴らしい歴史的事実と、黄門様の西山荘という二つの大きな歴史的財産を有しています。昭和生まれ・平成に生きる我々も、その歴史的意味を肌で実感し、なんらかの歴史を現代に生かす顕彰をすべきではないか?そういう目的に基づいて、15年前、今はなき秋山三郎会長時代、私は当時、クリストアンブレラの後を受けて、ポストアンブレラ委員会、そして、ふるさと活性委員会として、黄門様の桃源郷づくりの理想をいささかでも再現しようと提案、常陸太田クラブは一丸となって、せめて西山荘入り口ルートに、桃の花を咲かせようということになったわけであります。
桃は20年で枯れてしまいます。黄門様が植えた元禄の桃は、やがて枯れて、再現したのは水戸9代藩主斉昭公です。その桃もやがて枯れ、明治になって、木村名誉顧問のお父様あたりが中心になって明治の桃植え事業があって、その桃も昭和には枯れて、私たちのやっていますこの、平成の桃植え活動はいうなれば、水戸黄門様の時代から数えて4回目なのかもしれません。是非、この活動を我がクラブは継続していきたいなあ、と思います。
<結論 >
黄門様の桃源郷づくりは、現代の我々にとって、みちのくが始まる街・歴史と自然豊かな常陸太田全体を、世の中の多くの人々がやってきて、心と体を癒す桃源郷にすること、そう思うことが黄門様がこの地を選んでくれたことへの恩返しかもしれないのではないでしょうか。ご静聴ありがとうございました。