2010年夏、終戦から65年目。私たち団塊1号はあの戦争、そう、アジア太平洋戦争の戦火をくぐり抜け、
九死に一生を得た父母が居たから・・・私たちは存在する
この確かなる真実の意味を探るべく
わたしは父と母の御霊を追いかけ、親が丈夫なK君らは蒸し暑き真夏の晩に過去の戦争記憶を追いかけた・・・。
電脳掲示板を使ったその記録集、私の部分である・・・。





父はS19年6月、徳之島沖の海戦で、生き残り、私が生まれた。助かった訳は入四間御岩神社信仰と、久慈川の水府流泳法だった、と生前の父は良く言っていた。そんな父のことを僕はここでじっくり辿っていきたい。 メンバー各位も父と母について、太平洋戦争をキーワードに書いてほしい。

戦争勃発!序章
明治43年に太田の木崎で、炭屋代々長エ門(燃料屋)の家系の長男に生まれた我が実父のことを書き始めます。元来は佐竹の家臣だと思う、秋田の佐竹史料館には関ヶ原後の移封で二氏の蛭田が秋田に移っていますので、我が先祖は太田の地に残り、江戸の時代を薪炭で生計を立てていたと思う。

祖母の話によれば、Kという地元大型生鮮スーパーがまだ間口1間の頃、木崎の東電前の蛭田商店は間口5間あったそうで、Kに金を貸したこともあった、と多少自慢げに話したこともあった。
燃料革命の始まりと、親戚の悪い輩の偽造印・蛭田家の財産食いなどで、商売が左前になり、(祖母の話)我が父・信国は、旧制太田中を出ると、代用教員になって家族を養い、昭和3年7月、久慈郡金砂尋常高等小学校に奉職した。昭和7年には佐都同小学校に異動、子供の目だけを見て一教師を続けていた。この佐都時代の、エピソード(生徒のためには真冬の荒行もした)はまた別の機会に。

昭和16年晩秋、結婚し、まもなく真珠湾攻撃が開始される。

12月8日、父は、昼休みで佐都小の校庭の階段で、児童たちと遊んでいて戦争勃発のニュースを聞いたという。(投稿日:2010年 7月14日(水)20時49分33秒 )


一介の教師としての父そして赤紙
昭和19年1月末、運命の赤紙が父のもとに来た。召集令状がそのうち来るだろう、と承知はしていても「変な気持」になったことは事実だったようだ。父は当時、6年の担任で、受験指導で一番忙しい時期だった。毎日毎日、原紙を切り、テストの真っ最中、赤紙は河野昌次校長さんが手渡す。放課後、事務室で受験プリント原紙を起こしていた時、校長が「蛭田君!いよいよ来たぞ!」と怒鳴った。

2月1日・東部37部入隊の令状だった。

家計の事情からでしょう旧制太田中しか出ず師範にも行かずに42歳で校長に抜擢された父は、実に実直かつ生真面目な努力家だった、と思う。

父の教員生活は金砂の山の中から始まった。19の春だった。月給35円。一着の洋服代程度だった。しかし、父の商法も次第に振るわず、店の品物も減り、山下の駅前倉庫の木炭も急に減って、4、5人の子供を抱えて父母の暮らしも楽でない、父は生活費のために毎月その月給から15円を親に仕送りした、そうだ。頭が下がるなあと思う。

この金砂尋常高等小学校には昭和7年3月までいて、4月から佐都へ移ったわけだが、この金砂でのローソクの灯りの中の勉強は凄いなと思う。正教員の資格をとるため、教育学、論理学、心理学、音楽などの検定パスのために夢中で勉強したという。
佐都へ移ってからは、高等3年の体育を受け持たされたのは良いが、鉄棒が全くできない!同級生というのは有難いものだ、高等師範の体育を出たTさんが太中で教鞭を執っていて、父は学校の勤務を終えた後、毎日母校へ通い、Tさんの指導のもと、練習を続けて大車輪まで出来るようになった。手はマメだらけ、そのマメは私も中学か高校の頃見せてもらった記憶がある、努力家の証拠みたいなものだね。

生徒一番を示すエピソードもある。高等科1年の担任の時だった。6年で中学受験不合格者が6人いた。当時の中学受験は生半可では合格できない。徹底した実力をつけるしかない。この6名を毎日、夕方遅くまで教室に閉じ込めて、猛特訓。教科書を繰り返し繰り返し基礎から徹底して勉強させ、プリントとテストを連続実施。いよいよ合格発表の朝、父は宿直室からすぐに、裏のコンクリートに正座して、合格祈願を込めながら、冷水を三杯かぶった。真冬の水行である。全員15番以内で合格した時の父の喜びと感激はひとしおだったに違いない。この6名の中には、やがて父が70歳の時、父の内臓に出来た病変を発見、私に「お前さんのおやじさんには子供のころ実に世話になった。命に代えても俺が・・・」と言って、まさに父と同じ病気になって、父より先に、文字通り命に代えて父を救ってくれたM医師がいたのです。

私という息子への教育は全く出来なかった、下手な父であったが、亡くなって今もなお、時折父の思い出話をしてくれる教え子さんに会うと、教師冥利の人生を歩んだ父だったなあ、と改めて思います。(投稿日:2010年 7月15日(木)15時14分19秒 )

富山丸出港・・・昭和19年2月、徴兵された父は水戸、高崎、浅間などの部隊を移動して、6月、鹿児島にいた。そして6月27日、出港命令が出て鹿児島港を出発した。富山丸という巨船である。

8000トン、兵隊5000人、トラック50台、航空用ガソリンのドラム缶1000本、大仕掛けの輸送である。
父の任務は甲板で、暗号書が納められている金属の箱の監視だった。
28日の晩は奄美大島・古仁屋の港に停泊、29日午前5時、古仁屋を出発、沖縄方面に向かった。潜水艦の攻撃の心配がなくなったということで、甲武装が解除になり、船室で背嚢を置いたり、銃を置いたり、身軽な支度で朝食の時間になる。朝食は全員が船倉で摂るよう命令が出ていた。しかし、運命の女神はいた。父は船倉に朝食を取りに行き、甲板へ上がろうとした、将校に阻止を命じられた、暗号金箱監視の任務を述べたら許可され、上官らと飯ごうのご飯を食べようとした時である!

ビュー・・・という僚船からの非常警笛!海上を見ると、3本の白い線が見えた途端、父の目は真っ暗になった!!!(投稿日:2010年 7月16日(金)18時36分18秒 )
富山丸の撃沈!富山丸は魚雷三発が命中、8000トンの船は真っ二つ、撃沈する!

戦友も暗号箱もあったものではない、そのまま甲板上から海に飛び込んだ父。ドカン!ドカン!というものすごい音、1000本のドラム缶が次々と破裂して、油の火の海と化した。

幸い筏が浮いていたのでそれにつかまってしばらく居た。しかし、筏は沈む船のほうへ流れていく。筏につかまっていては船と一緒に地獄の渦の中に巻き込まれるほかはない。浮いている樽を見つけてその樽へ泳ぎ着いた。その向こうに7、8名がボートにつかまっているのでそのボートに泳ぎ着いた。海中に1時間はいたという。撃沈の場所は徳之島が幽かに見える日本海溝の一部にあたるところ。海水は冷たく身体は凍えるようだった。火の海、真紅の火柱、もうもうたる黒煙、地獄の修羅場だった、と父は語った。

泳いで沈む富山丸から遠ざかり、僚船だった南進丸に助けられ、奄美大島に上陸した。
戦死者は4000人を超えた。救助されたのは600人。そのうち無傷のものはほとんどいない。火の海の中で黒こげになって病院に運ばれたら幸いなのだ。しかし、父は、やけど一つなく、奄美大島にたどりついた。
「戦艦の沈む渦巻から遠ざかり、浮遊物から浮遊物へ辿りつけたのも、小学校の時、久慈川・河合の水場で泳ぎ(水府流)を習ったお蔭、そして神の助けだ」と生前の父はいつも言っていた。(投稿日:2010年 7月18日(日)18時52分22秒 )

命を救った水府流
火の海を泳いで助かった父、奇跡の命拾いの原動力は子供のころに久慈川で覚えた水府流だった。


大正の初め、当然プールがあるはずもない。どぶ川であろうが、下水のような小川であろうが、子供たちは夏、最大の楽しみが泳ぎだったようだ。太田では中井川(マックスバリュの前の道の道路沿い、建設省の阿呆な判断で魚の棲まない川になってしまった)、里川、はこどい、なまず川などが父の思い出の近場の川のようです。
そして、小学校に入った頃、河合の鉄橋と幸久橋の間に、水場が開かれ、太田小の先生、河合の学校の先生で水泳の得意な先生が、水場の指導教官になって、児童に水府流を教えたという。
父は小学4、5、6年と3年間、水場に通った。毎年7月半ばから8月の半ばまでの1か月余だった。太田の駅から定期券を買って通う。木崎の坂の降り口に、西洋堂というパン屋があって、ジャムパンを二個買って、そのお昼がまた楽しみだったという。

最初は新入りで白手ぬぐい、4級になると浅黄色、3級は青二本、二級が赤と青、1級が赤二本、独泳が赤1本だったという。進級試験があって、脱衣場のところに進級者の名前が貼り出され、父は、ついに、小学6年の夏、独泳に進んだ。その時の喜びと感動はなんとも言いようがなかったそうだ。
旧太田中に進んでからは水場はやめた、理由は語らないが私の推測では、きっと陰りが見え始めた燃料店の商売の手伝いや、中学の勉強などで手が回らなかったのではなかろうか。

黒くて長い二本の線の入った「舟番」にはならなかったのが口惜しかったはずだが、この我が国古来からの武士の泳法習得こそ、父の命を救った大きな原動力であった。(投稿日:2010年 7月19日(月)12時43分2秒 )

富山丸の真の任務
火の海に飛び込み奄美大島に助けられた父の時計は午前8時少し前で止まっていたそうだ。


大島に約10日いて、やけどで病院に収容されているものを残し、元気になったものだけで渡辺隊が編成され、沖縄本島に向けて出港した。小さな船だったが那覇に上陸、代木兵舎に宿営、二週間後には宮古島へ移動、平良港に上陸は7月16日だった。下地国民学校に宿営、西飛行場設定の作業従事命令がでた。父は暗号事務と人事の助手が仕事だったそうだ。

さて、富山丸の南方への輸送の目的は何だったのだろうか?
父は言う。実は行き先は沖縄の伊江島、その島に飛行場を造るのが目的の部隊だった。もし、撃沈されずに輸送が巧く行き、飛行場ができていたら、米軍の伊江島上陸そして激しい全員玉砕は免れたのかも知れない・・・。そう父は思っていたようだ。(玉砕の)時間の問題だとは思うが・・・。(投稿日:2010年 7月19日(月)17時37分12秒)
マラリア感染奄美大島、沖縄、宮古島など南方の島ではマラリアの感染がすごい。
 特に父が駐屯した宮古島・下地あたりには製糖会社があって、湿地帯になっておりマラリア蚊の発生地だった。十分な注意はしていても、いつの間のか蚊に刺され、マラリアに感染し、熱が40度を越し、頭痛の激しさも凄い、戦友が夜を徹して頭に水をかけてくれたという。
枕には芭蕉の大きな葉を敷いてくれた。芭蕉の葉は熱さましのおまじないかも知らないが、気持ち良かったそうだ。
頭痛で我慢できず軍医に頼んで鎮痛剤を飲んだ。身体の震えもひどい。病室は学校の体育館のようなところで、何人もの患者が寝ていた。寝ていた時、突然、敵機の空襲があった。敵は飛行場に爆弾を投下、兵舎に機銃掃射、患者全員、地を張って裏山へ逃げた。父は憶病な性格だったという。誰よりも先に、誰よりも遠くに逃げた記憶があると話していた。

マラリアで倒れて寝ていた間に、西飛行場の作業は一段落を遂げて、マラリアが治って事務作業に当たっているうち、1ヶ月くらいして、またマラリアが再発、二週間病室暮らし、治ってぶらぶらしていたら、昭和20年正月早々、また再発、熱は41度5分まで上がった。頭痛が激しく、「もうだめだ、死ぬな」と思ったそうだ。戦友がまた夜通し、頭から水をかけ続け、10日くらいで落ち着いた。練成班で休養、間もなく全快して、本部へ戻れて兵籍業務に従事した。
あとで聞いたらこの部落は昔、マラリアの流行で村が全滅したそうだ。


" 与那覇の思い出
「愛の隊長」渡辺隊長の素晴らしさを父は語った。

まず兵隊に話しかける言葉が実に優しく丁寧であった。自分でうまいものを食べれば、部下の兵隊にも同じものを食べさせようという思いやりと愛があった。アダンバという葉を材料にして草履をあんで、兵隊に「君これを履き給え」と差し出す隊長だった。こんな隊長の下では命を投げうっても惜しくない、父はよくそう思っていたそうだ。ある時兵隊のための食糧がほとんどなくなって困っている時、他の部隊の倉庫から強引に米俵を交渉して持ち出し、父ら部隊員にたらふくコメの飯を食べさせてくれた強さを持っていたという。肉をあきるほど食べさせる隊長はざらにはいなかったのではなかろうか。
兵隊はほんとに腹をすかせていた。腹が減って寝付けない時もよくあった。そういうある晩、2,3の戦友と兵舎を抜け出し、一里も二里も先のサツマイモ畑にたどり着き、手探りで探し当て、5.6本掘っては隠れ隠れしながら兵舎に戻り、飯ごうで炊いて腹に入れ、ようやく寝つけるという晩も幾晩も続いたそうだ。サツマ畑は昼間のうちに大体見当をつけておいたわけである。
サツマだけでなくタピオカという山芋に似たものを蒸かして腹をふさいだこともあった。そんなことは終戦になってもしばらくは続いたという。(投稿日:2010年 7月25日(日)03時42分30秒 )
大いなる勘違い・・・今回、改めて父の自伝・戦争部分を読んでみて、大きな勘違い・誤解があったことを報告します。
それは父が火の海を泳いで辿りついた島は奄美大島だったことです。実はこれまでずっと、徳之島だと思っていたのです。原因は高校か中学か、戦争と平和で議論した時、徳之島の名前が耳に焼きついていたのと、自伝発行のまとめ、校正でもそう思い込んで認識していたこと、などかなあ。
今回、熟読して、徳之島沖で魚雷攻撃撃沈、奄美大島に漂着、宮古島経由、沖縄本島そういうルートであったのが解りました。

IT社会、掲示板やブログでこれまで徳之島の方々と大きな縁ができ、最近はグアバ茶、自宅の庭のものだよ、黒糖、ナタマメなど頂く関係も生じましたが、勘違いは致し方ないなあ、平にあやまり、そして、これから奄美大島、そして父が愛した宮古島との縁も結ばなきゃならんと思います。

これもまた縁(えにし)ですね。徳之島の皆さん、ごめんなさい、そして、ありがとう!!!
この島、徳之島の方々は、毎年、富山丸慰霊のための鎮魂コンサートを、海岸で行ってる奇特な愛の島民なのです。 (投稿日:2010年 7月26日(月)19時29分12秒)

筆跡の変化・・・
悲喜こもごも本部勤務となって与那覇の事務室にいた時だった。電話の受話器の向こうで「沖縄に敵上陸」という内容が流れた。ところが誰も本気にせず演習ていどだろうと思っていたが、戦況はますますアメリカ連合軍の攻勢が強まり、兵隊たちは夜も武装して床に就く、宮古島に敵の落下傘部隊降下の情報も入って、父もいよいよ死ぬ日が来たか、と覚悟を決め始めていた。

 宮古島での父の業務は、徳之島沖の富山丸戦死者の情報記録収集と、陣中日誌を書くことだった。ある日、本多という副官が「俺が平良まで行ってくるからそれまでに、陣中日誌を仕上げておくように」と命令がでて、朝から日誌の清書にとりかかり、本多副官が帰ってきたので見せにいった。「こんな文字の陣中日誌を陛下の前にお見せできるか!」本多副官に大声で怒鳴られ日誌を叩きつけられた。自分としては朝から丁寧にやったつもりだったので残念無念の涙をやっとの思いで堪えていたという。しかし、父は反省した。確かに文字は殴り書きの部分もあり、今度は一字一句、きちんと心を込めて楷書体で書き直し、再提出、「これで宜しい」と許された。
この時から父の字はそれまでの筆跡と異なり、誰にも読めるしっかりとした楷書体文字となった。
 子供のころ、父の字を何度も見たが上手でとても美しい、とは思ったことはなかったが、一字一句を実に丁寧に筆圧を込めて書いている、そんな印象は持った、なんでも実に誠実で生真面目な父の性格を表している字だな、と思っていた。その父もそういう筆跡に至るには戦地でのこのような事変があったからなのだった。カミサンや周りから「字が読めない」、と苦情を言われる自分としても、深く反省が必要なのかも知れない。
父のこの筆跡の変化は太田の自宅の家族に、実は大変な誤解を与えることになる。 (投稿日:2010年 7月27日(火)15時33分50秒 )

筆跡の変化・・勘違いの神棚
徳之島沖の海戦で富山丸は撃沈されほとんど全滅、という報道が太田の家の方には噂として伝わっていた。当時、太田から内地留学で鹿児島へなにかの研究に来られていた方がいて、その方が富山丸の撃沈の状況を知り、留学を終えて学校に戻り、妻もと(我が母)が機初小学校に勤めていたので薄々、その話を耳にして、「主人はおそらく戦死しているに違いない」という想像をしていた、そうだ。

父はある日、隊長から許可をもらった、それは徳之島沖海戦の状況をプリントし、生き残った兵隊仲間数名が自宅に生存を知らせても良い、という許可だった。
父は封筒の宛名を自分で書き、文面ももちろん自筆で、敵潜水艦と戦闘し自分らの乗っていた富山丸は沈んだが自分は無事に生き残って、宮古島で元気に勤務しているという内容だった。
太田の家では、富山丸撃沈の情報を聞き、今度は公報の封書が郵送されたわけで、宛名上書きは父の字でも、すっかり字の筆跡が変わってしまったので、父母妻とも、戦死の公報と思い込み、1週間ぐらいは封を切らずに、神棚へお供えしておいたそうだ。
数日して開封して「元気でいる」と本人が書いていることを見た瞬間の喜びと感動は想像を超えるものがあるに違いない。家中、うれし泣きの渦だったという。
父は上官の激怒で丁寧な字の人間になった。
筆跡の変化が、意外な悲喜こもごもを生んだ逸話である。(投稿日:2010年 7月28日(水)04時10分10秒 )

敗戦への序奏・臆病者の宴
今の平和な宮古島、観光スポットの一つにマングローブの植生がある。与那覇湾の少し北に下地字川満がある。昭和20年、その川満に部隊があった時、父は3月1日付で上等兵に命ぜられた。まもなく与那覇へ帰営を命じられ敵の爆撃はますます激しくなる一方だったが、宮古島の墓地の造りが役立った。山の岩をくり抜き、入口は小さいが中は広くなっていて、甕が置いてあり、その甕にその家の亡くなられた方々のお骨が納められいくつも並んでいた。兵舎の近くにはそうした墓があって、空襲の時は防空壕の代わりにその墓に逃げ込んだ。父は隊でも臆病で有名だったという、だから一番真っ先にその墓場に逃げ込んだ。

部隊ではたまには酒盛りをした。島で飲んだ酒はサトウキビで作った泡盛、ごく強い酒だった。酒盛りの最中に飛行場めがけて敵機の来襲があり、滑走路に滅茶苦茶、爆弾を落としていく。兵舎は飛行場のすぐ近くにあるのでうっかりできない。ただ酒盛りの最中の時の空襲だけ、酔いのために気が大きくなっており、臆病者の父は最後まで兵舎に残っていて、「落とせるものなら落としてみろ!」とタンカをきったこともあった、という。今思うと滑稽だったなあ、そう相好を崩した父の顔が浮かぶ・・・。(投稿日:2010年 7月30日(金)07時35分22秒 )


(写真は川満のマングローブ遊歩道あたり)

日立大空襲の時の我が妻&石川先輩の記憶
今回の戦争企画で、昭和20年6月だっけ、終戦近くあった日立大空襲の時のカミサン(3歳前)と石川一博さん(5歳かな)の体験記録をメモしておきます。


カミサン:東坂にあった防空壕に母親に連れられ入る。おしっこしたくなったが、我慢しなさい!と叱られた、山の稜線の上に赤い毛虫のようなものがどんどんドンドン落ちていく様子を見た、戦争とかなんとか怖いとか危険とかの印象はなく・・・。

石川さん:西山へ逃げ、母の実家であるマンダラ寺旅館に数日滞在した。石川夫人は辛い。かみさんと同じくらいの年だが、日立かみねで写真館を営む実家が爆撃で焼失、焼け出された、親は言った「死ななくて良かった、家はいつでも建てられる」。日立二から常陽B行員からみそまれワールドの嫁になり、幸せな人生歩んでます。(投稿日:2010年 7月29日(木)03時53分51秒 )

宮古島は特攻基地 
特攻機は内地からも飛び立ったが宮古島はとりわけ特攻機の基地として重要拠点だった。父はよく特攻機の概観を目撃していた。爆弾は太い針金で飛行機の胴体にしばりつけてあった。当然、爆弾を抱えて飛び立つ特攻機は帰らないのである。崇高な特攻機の方々の勇壮なお気持ちには頭が下がる思いだった、と父は語っていた。しかし、大切な生命を、先祖から頂いた尊い生命をなぜ捨てなければならないのか。生命より大事なものがこの世にあるだろうか。宮古島に居た時は、手を合わせ拝して特攻機を送ったが、戦争に関する自叙伝を綴っていた時の父は、二度とふたたび非人道的な戦争こそ絶対に排撃すべし、と強く語っていた。

 高校時代、ベトナム戦争が激しく行われ枯葉剤など化学兵器を使うアメリカの好戦性がマスコミでも大きく取り上げられていた。私は高校生も世界の一員として、戦争や平和の問題に関心を持つべきだ、と主張して、社研、いわゆる社会問題研究会の立ち上げを学校側へぶつける準備運動をしたことがある。そうした時だったか、父と戦争の問題を話し合ったことがあった。父になんで赤紙を破り捨てても徴兵に応じるべきではなかったのではないか、戦争になぜ行ったのか、戦地に行ったものは敵を殺すことになるわけだから、殺人者になることだ、ウンヌンと責めたことがあった。戦地でのすさまじき体験の中から生まれた父のこうした平和主義が理解できない、愚か者、若気の至り、頭でっかちの純粋論で父に歯向かって申し訳なかったなあ、と今は思える。 (投稿日:2010年 7月30日(金)18時39分13秒)
敗戦の日 敵が沖縄に上陸して4、5カ月、作戦が変わったのか、宮古島への爆撃や機銃掃射が遠のいてきたようだった。敵は宮古島など捨てて本土作戦に取り掛かったという報道が時々耳に入った。
島の部隊は長期戦を予想し、宮古島に5年も10年も生活する決意をし、食糧の確保なども考え始め、自給自足の設計も立て始まった。横井さんや小野田さんが戦後何十年も経って突然現れた時、「終戦になってもなんで山奥に閉じこもって一人戦闘態勢の数十年を送ったのだろう」、という疑問の声も多かった。しかし、宮古島の父の部隊の話を聞くと、日本防衛の任務こそすべての教育を受け、洗脳された生真面目な兵士にしてみたら、たった一人になっても敵と闘い続け、祖国を守るんだと一歩も引かない決断、この二人を責めることはできないな、とも思えるようになった。
 「8月16日と記憶している」と父が書いている。なぜ15日でないのか、宮古島では玉音放送でなく1日発表が遅かったのか、父の勘違いなのかは、今となっては確認不明だが敗戦・終戦の瞬間をこう書いています。
「全員兵舎の前に集合との命令が下った。何か重大な予感がした。隊長殿は静かに不動の姿勢をとられ、涙を流しながら陛下の終戦のお言葉を伝えられた。兵隊は全員、ただ茫然として気を失った態であった」。
 遂に敗戦である・・・。
身命を捨て国家を思い死んでいった戦友たちに何と申し訳ができるのかという気持ちで一杯だった。すぐ明日にでもアメリカ兵が上陸し、全員捕虜となり、どこへ連れ去られるかわからない、という心配もあった。
しかし、まもなくアメリカ軍の幹部たちが上陸し、武器弾薬一切を取り上げ、アメリカからみて危険と思われるものをすべて没収撤収しただけで父ら兵士が心配した人権を侵して苦しめるような行為と振る舞いは少しも感じられなかった、そうだ。宮古島での米軍の態度は極めて事務的、紳士的であったということか・・・。 (投稿日:2010年 7月31日(土)04時19分37秒 )

富士が見えた!
その日から毎日のように本土へ帰れる日を待ち焦がれていた。


 秋が深まった頃だった、内地帰還の命令があり、自分で縫いあげたリュックに所要のものを入れリュックを背負って海岸へ歩いた。500メートルか1000メートル先にアメリカの輸送船が煙をはいて乗船を待っていた。本土帰還とは聞いたが、あるいはまたどこかへ運ばれてしまうのでは、不安も起きた父の心理。心配性だからでもあるが戦争とは普通の神経をもおかしくさせてしまうものでしょう。
 何万トンという巨大船、食事は缶詰だったが船酔いと興奮気味でほとんど食事は摂れなかった。艦内は毎日9時から10時になるとアメリカ兵が掃除を始める。それが終わると徹底した検査がある。隅から隅まで検査の眼が届かないところがないほどの徹底した検査。所持品に関しての注意があり、島で使用した軍に関する記録、その他すべてのもの、食事ででた缶詰に至るまで上陸の際は本土に持ち込んではいけない。大概のものはすべて海に投げ捨てた。
 ある日、「富士が見えた!」と大騒ぎ。甲板に上った。久しぶりに見る富士山。誰も眼がしらを熱くした。声は出さなかったが両手を挙げ心の中で万歳を叫んだ。戦死された戦友にこの富士の雄姿を見せたかった。
浦賀に着いた。一晩海上に宿泊、次の日、厳重な検査があり、横須賀の宿舎に案内され、その宿舎も一泊して次の日、故郷を目指して出発した。昭和20年11月11日の復員だった。 (投稿日:2010年 7月31日(土)19時21分59秒 )
奇跡の共有者 父には坂本さんという同朋がいた。水戸に入隊も同じ日、暗号の教育も一緒に受け、二人一緒に飛行場設定隊の暗号手に選ばれ、徳之島海戦で共に生き残った奇跡の共有者である。まさに九死に一生を得て、再び坂本さんと共に故郷の地に戻れたことは、「ご先祖様神様仏様のご加護そのものだった」が父の生涯の口癖だった。
 家に着いたのは夕方だった。父の父、私は会ったことのない(私の生まれる1年前に死去)祖父、孝次郎は風呂に入っていた。祖父は風呂で声を張り上げて泣いていたという。父の母、我が祖母すては眼に一杯の涙を浮かべて「ご苦労だった・・・」と泣きながらいたわってくれた。私の母、父の妻もとはただ涙を浮かべていただけで言葉にならなかったという。

奇跡の共有者・坂本さんは父の自伝では「太田中同窓、世喜村出身、坂本誠氏」とかかれています。 (投稿日:2010年 8月 2日(月)04時50分31秒 )

" 運命の糸 
父の弟・米之助は学徒出陣で徴兵されたが消息がわからなかったが、終戦から数年してからビルマインパールにて戦死の通知があったという。片方の息子は思いがけずに帰ってこられたが二男の方の消息を知らないまま、父・孝次郎は昭和21年5月、脳卒中で帰らぬ人になった。私が生まれる1年前に亡くなった我が祖父、この孝次郎は燃料店をやりながら、しかし漢方や民間医療の研究家だった。阿武隈山中、御岩神社信仰者で滝に打たれながら浮かぶ漢方処方を傍らの弟子が書きとり、盟友の川又薬局15代目・川又重郎衛門を訪ね、孝次郎のあまりの細かな指図に嫌気をもつ薬局に働く丁稚小僧は、蜘蛛の子を散らすように消える中、重郎衛門だけは数々の生薬の計量を丁寧にこなす、この二人の共同作業の漢方処方が大正から昭和の初期にかけ、爆発的に蔓延していた結核患者の命を数え切れないほど救ったという。
 なんという偶然か、はたまた運命の必然性があったのだろうか、祖父同士のそういう深い因縁を知ることなく、私と妻・洋子は結ばれ結婚したのです。結婚して数年して喧嘩の仲裁した妻の伯父から、祖父同士のつながりを聞いた時、運命の糸はある、と実感した。
 信心深い祖父だったからか、前日まで元気、苦しみなく神棚に頭を向け穏やかな顔で大往生だったという。父は自伝で書いています。
「実に厳格な性格だった。曲がったことが大嫌い。情が深かった。涙があった。商売で金を貸した時、困るだろうからと言って催促はしないほうだった。そして自分が借りた時は質屋通いしても返そうと努めた。神棚と仏壇への御勤めは1日も欠かしたことがなかった。願い事はせず、勿体ない、有難い、が口癖だった」。 (投稿日:2010年 8月 3日(火)04時27分11秒 )
父の遺言 父の自伝の中で戦争部分の最後の部分を抜粋する。あれから65年の夏、私に示された遺言のような気がします。
「兵隊に1年11カ月。補充兵役で35歳の時の臨時召集。一兵卒で飯盛りから洗濯まで手にヒビ、アカギレをつくりながらずっと年下の若者の命令をハイハイ聞きながらの野戦暮らし、歯をくいしばって頑張った、一つ一つ星が増え、二等兵、上等兵、終戦と同時に兵長任命、そして205飛行場大隊長から善行証書と航空下士官適任証書拝受、無事帰還できたのは、まさに、奇跡としか言いようがない。
世の中、命、生命以上に貴重なものはない。しかし、命の殺し合いを強いる戦争政治はもう止めるべき使命がある、人類には」。

 あの戦争終結から65年目の夏、経験したことがないような酷暑・猛暑が日本列島を覆い、他所の熱波地域の出来ごとのように思っていた灼熱地獄の犠牲者が相次ぐ夏になってしまった。この熱波が私たちの戦争への憎しみ、平和への望みを絞り出したのだろうか、太平洋戦争の落とし子、団塊世代1号の太田一高41会に生まれた今夏の「戦争と平和を見つめあう意見交換企画」、数名のメンバーから貴重な熱い生の情報と意見がでた、実に有意義で、今後も継続したいと思う。
 70歳ですい臓がんを発症、7時間余の大手術を乗り越え、80で旅立つまでの生命力、その間、書きためていた自分の人生を記した伝記を自費出版、その編集の面倒をみた息子として、この夏、改めて父の戦争部分を読み返してみた。20年前に他界した草葉の陰の父を改めて思う夏、戦争と平和に関しての私の今の気持ちの一端を示して、おきたい。
「命は平等である。誰の命も価値は同じ、肌の色、文化言葉の違いなんて関係ない、この地上の星の、すべての人々の命は誰もが最も貴重で、最大価値である。戦争は、それなのに、人と人を争わせ、闘わせ、お互いを加害者にも、被害者にしてしまう、国家とか民族の、権力による、有無を言わせぬ強大なる「仕掛け」である。
私たちはふだん、誰かと何らかのいさかいがあった時、相手を殴ったり傷つけたりはしないで解決している。互いの誤解を解く、徹底した話し合い、で。民族や国家には、それは互いの利害にからむことも実に多いだろう。互いの存在を思いやりと寛容で尊重しあい、しかし、何か解決しなければならない問題が起きた時、してはならないことはただ一つ。軍事的な手段での解決方法をとらないことであろう。徹底した情報の交換と話し合い・協議、相互の思いやりと理解、これこそがこの地球のリーダーとして牽引する生物の代表としての良心とマナー、英知ではないだろうか。
我が国はあの悲惨な戦争を経験し、広島長崎への人類初の原爆悲劇を契機に、戦いを止め、あの日本国憲法の前文と9条の精神を選んだ。この国民の選択はけして誤りであるはずはなく、むしろ、この平和主義の心と実践を、我が国から率先して世界の国々と民族へ拡大浸透させていくのが使命である。これがあの戦争で「お母さんお父さん!」と散って行った戦死者諸魂への最大の鎮魂、我が国民の使命ではなかろうか。」(投稿日:2010年 8月 5日(木)04時45分50秒 )